décadence 第1話 [連載小説]
母さん、貴女は元気だろうか…。
まだ、若かった貴女が、何とか俺を育ててくれた。幸せな時は、俺を抱きしめながら、夢のような話をたくさんしてくれた。ずっと欲しかったおもちゃを買ってくれる約束。コマーシャルで流れてた、おまけ付きのお子様セットをレストランに食べに行く約束。…俺は貴女の膝の上で、約束が果たされる日を心待ちにしていた。
貴女に連れられていったレストランには、知らない男の人が待っていた。不自然な口紅をつけた貴女と、その男の人の顔を交互に見比べながら、心に孤独と寂しさが広がっていった。それでも俺は、無邪気な子供を装い、おまけのおもちゃを必死にいじり続けた。
数日が過ぎて、貴女は不機嫌な声で家に帰ってきた。俺は、寝そべってテレビを見ていた。貴女は、寝そべっているただそれだけのことに、烈火のごとく怒った。まるで狂ったかのように、何度も何度も俺の頬を平手で叩いた。俺は何が何だかわからなかった。ただ、貴女の手は止まることを忘れているようだった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
俺は謝り続けていた。その「ごめんなさい」は、途中から嗚咽になった。貴女が手を休めるまで、俺は涙を流して謝り続けた。
しばらくして、憑き物が落ちたように、貴女は崩れ落ちた。そして、声をあげて泣き出した。その姿を見て、俺は不安で…、とても不安で…。自分が泣くことすら忘れた。俺は急いで洗面所からタオルを取ってきて、貴女に渡した。俺は冷静になるしか方法がなかった。ジーンと熱く火照った頬に手を当てた。口の中が生臭い、…血が流れてる。その時、自分の口が切れていることに気付いた。泣きじゃくる貴女を見つめながら、俺の口の中に痛みが広がっていた。
貴女はまだ若すぎたから、恋人もなしで俺と二人の人生に向き合っていく勇気はなかったんだろう。一番強烈な、あの出来事以来、何度も同じようなことがあった。そのたびに俺は言いようのない漠然とした不安に襲われた。
俺が高校を卒業すると、貴女はすぐに再婚した。そして、それ以来、貴女と俺は別々に生活している。今では、数年に一度会えば良い方だ。独りで生きることには、すっかり慣れた。ただ、俺には貴女からいつも聞きたかった言葉がある。…何度も聞こうと思った。そして聞けなかった、大切な言葉が…。
俺には彼女がいる。いつも俺の部屋にやってくる。そして、俺の身の回りのことを、頼みもしないのにやっている。今も、台所でメシを作っている。俺は、そんな彼女の後ろ姿を、さっきからずっと、ただぼんやりと眺めている。
…好き、ではない。彼女のことは別になんとも思っていない。今まで何度もそう思った。思っただけで口に出さなかったのは、特に別れる理由もないからだ。
行きつけの飲み屋で知り合った彼女。酔った勢いで、キスをした。思ったより、気持ちのいいキスだった。この女、遊んでるんだろうな。すぐにそうわかるようなキスだった。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、そんな出会い方をした彼女が、こんなに俺に真剣になるなんて、考えもしなかった。
また、へたくそなメシなんだろうな。ちゃんとメシ作ったことあんのかよ。俺は、ガキの頃から自分でメシ作って食ってんだ、何度も聞かせただろ。まったく、鈍いやつだ。
一人で幸せにひたっている彼女を見ていると、だんだん腹が立ってきた。
お前、自分のエゴで俺にメシつくってんだろ。自己陶酔なんだろ。気付けよ、偽善者!
心の中で悪態をつく。そしてその思いが、どんどん広がっていく。
「チャーハンできたよ」
嬉しそうにチャーハンをテーブルに並べる彼女。俺がしぶしぶ席につくと、媚びたような歪んだ笑顔で俺を見ている。心には俺の苛立ちがさらに加速している
「いただきまーす」
彼女の声につられて、俺はチャーハンをスプーンですくい、口にふくんだ。
まずい。猛烈な吐き気がした。
「ペッ」
今、口にふくんだばかりのチャーハンを、思わず吐き出した。
「ひどーい」
彼女が、甘えたような声で俺に言った。その瞬間、さっきから溜まっていた怒りが爆発した。
俺はチャーハンの皿を床に叩きつけた。大きな音がした。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出すのが見えた。その情景がスローモーションを見るみたいに、妙にゆっくりと動いていた。だが、怒りは別のところから湧き上がってくる。俺は、その気持ちを抑えるやり方がわからなかった。
「帰れよ!お前は鈍いんだよ!ウゼーよ!」
彼女は、ただ泣いていた。
…To Be Continued.
連鎖 [短編小説]
つい、さっきまで二人で抱き合っていたというのに、メールひとつで彼は飛び出していった。
いくら泣いても、嘆いても、何も変わらない。いつだって自分に言い聞かせてきた。
彼は、きっといつものように、すぐに追い返されて、ここに戻ってくる。なのに、私はそんな彼に、悪態のひとつすらつけやしない。怯える瞳で、彼の動きを追いかけるだけ…。
私は、彼女の代わりだ。彼は、私を使って彼女を感じようとしている。彼が私を抱くときの視線は、私よりもっと遠くを見ている。私の身体を通り抜けて、その先にいる彼女を見つめている。私はどうして彼女に生まれて来なかったんだろう。きっと、神様なんていないのだろう。生まれ変わるなんてこともないのだろう。私が彼女と代われる日なんて、未来永劫やっては来ない。
私は、このまま磨り減っていくの?
私は大学に通うかたわら、学習塾でアルバイトをしていた。彼は、その塾で働くベテランのアルバイトだった。大学を卒業しても定職に就かずに、塾のアルバイトを8年も続けているフリーターだ。彼が就職をしない理由は、「旅に出るため」だった。バイト代がたまると、仕事を何週間も休んで旅に出た。バイクで日本中、世界中を駆け回った。
旅から戻る彼は、とても魅力的だ。肌は日に焼け、精悍にシェイプされた身体のシルエットは野生動物のようだ。そして、好奇心に満ち溢れる瞳の輝き…。他の男たちが、みな一様に頭でっかちでひ弱な男に見えてしまう。
半年前、旅から戻ったばかりの彼と、お酒を飲む機会があった。同じ塾の人たちの飲み会だった。私は、気持ちが高ぶっていた。その上、慣れないお酒で、少し大胆になれた。
「…送ってくれませんか?」
その晩から、私と彼は特別な関係になった。友達の一線は越えた。でも、恋人と呼べるほどの距離にはなれない。
彼は私のくちびるに、くちびるを重ねて問いかけた。
「俺、好きな人がいるんだ。それでもいい?」
ひどい人だと思った。でも私は、
「うん」
と、答えていた。同じ職場で働き時間を共有できるのは、私の方だから、私に分がある。瞬時にそう思った。
でも、次のデートで私は打ちのめされる。
塾の仕事が終わったあと、私は彼の行きつけのバーに連れられた。路地裏の雑居ビル、外階段が地下に続いていて、その先にドアがあった。彼はドアを開けると、あっ、と声をあげた。
「もう、帰ってたんだ!」
彼に親しげに声をかけたその人が、彼女だった。彼女は大人の表情で、彼に手を振る。彼は、私など始めからいなかったかのように、彼女の隣に座ると、私を会社の同僚とだけ伝えて、彼女に旅の話を熱心に語り始めていた。
文字を読むのがやっとの間接照明の下で、二人は、肩を寄せ合い、指を絡めあい、そして、人目も気にせずキスをしていた。
私のグラスを持つ手が震えていた。生まれて初めて、悲しみで身体が震えた。グラスの中で、カラカラと氷が音をたてた。
「先に帰ってて、いいよ」
店の中で、彼と交わした会話はこれだけだった。
3時間ほどたって、彼からのメールが届いた。
『行ってもいい?』
…私は、彼を拒めない。
彼にとっての彼女は、大切な人だった。彼女は自由奔放な人で、常識の枠に収まる人ではなかった。彼女は誰にも縛られない、忘れられない恋人以外には…。彼女に襲いかかる不安や孤独は、彼女の周囲の何人かの男たちで癒されていた。彼は、その中の一人でしかなかった。まるで、彼と私の関係みたいだ。彼女、彼、私。不思議な連鎖だ。
たとえどんな状況であっても、彼女のもとへ駆けていく彼。その彼を、癒せるのは私しかいない。私は彼に傅く。たとえどんな状況であっても、彼を受け入れる…。
行ってしまった彼を座ったまま見送った私は、明日のバイトの準備を始めた。何かに没頭してしまえば、彼と会えない時間なんてすぐに過ぎる。
テキストを広げて、準備を始めようとしたとき、薄いページの紙で、指を切ってしまった。すると、たいして痛くもないのに、血がにじんできた。指先の小さな亀裂から溢れる赤い雫を見ていたら、涙がこぼれた。
彼の心にも、チクッて痛みが走るのかな?
もしも、私が消えたら…。
彼の前では泣かない私が、一人ですすり泣く。彼を何度も自由にさせて、そして私は抜け殻になって彼を待つ。
明け方になって、彼が戻ってきた。悲しみが瞳に流れていた。私は黙って彼を引き寄せた。彼は震えながら私の隣にもぐりこんだ。傷ついた彼を抱きしめながら、私はもっと深く傷ついていた。彼は、自分だけが傷ついたみたいに、私の身体を乱暴に扱っていた。彼女にぶつけられない苛立ちを、私にぶつけた。
私は、乱暴にされればされるほど、救われたような気になった。心が、空っぽになる…。痛い…。
激しく、身勝手に動き続ける彼に私は囁いた。
「もっと、虐めて…」
彼は、悲しそうに私をじっと見ていた。
…Fin.
邂逅 [短編小説]
僕たちは、まばゆい光の中にいた。
君は僕を見つめると、そっと瞳を閉じて、次の邂逅を待つ。
僕は、君の身体をしっかりと抱きしめたまま、離れないように力を加えた。
僕たちの宇宙は重力を失って、上下左右の感覚がなくなる。
僕らはいっそう深く結びつく。二度とはなれないように、強く、強く…。
ふと、君の瞳がひらくと、君は笑みを浮かべた。
もう、ずっと一緒ね…。
君のささやきとともに、急速に上昇していた僕らの放物線は、
ゆっくりと頂点に到達しようとしていた…。
僕は、君と出会うまでの数年間、ともに暮らす彼女がいた。僕と彼女は、何年も絵を描いて暮らしていた。高校を出て、少しだけ絵の学校に行ったが、彼女は世間に迎合することを好まず、学校にはすぐに行かなくなった。
それからというもの、僕と彼女は、勝手気ままに絵を描いてはコンテストに出展していた。いつか、世の中が自分たちの「芸術」を認めることを信じて、最低限の暮らしの中で、僕と彼女は、まるで戦場で闘う兵士ように暮らしていた。
彼女はよく、世間に牙をむけた。感性の鈍った凡庸な人々には、自分の芸術は理解できないんだと、そして、理解など必要ないと、世間を罵倒し続けた。
それが彼女の強がりであったとしても、その厭世観が彼女の原動力だった。そして僕も、どこかで彼女の言葉に同調していた。
永遠に続くかと思った、僕と彼女の闘いの日々は、あっけなく終わった。
僕の描いた絵が、入賞した。
僕らの暮らしは、急速に変化していった。
彼女の戦いの剣先は、僕に変わっていた。
僕の絵は貨幣に変わり、彼女の絵は「芸術」のままだった。僕は職業画家となったが、彼女は「兵士」のままだった。僕らは時間も意識も、すれ違うようになっていった。
疲れ果てた僕の前に現れたのが、君だった。
…放物線は頂点を過ぎ、余韻を残しながら、落ちていく。
次第に加速しながら、無限の底をめがけて落ちていく。
君は僕の身体にしがみついたまま、終わらない浮遊感に耐えた。
僕は君の身体が離れないように、よりいっそう力を込めて君を支えている。
ゆっくりと僕の背中を、君の指が撫でる。肩の丘陵を越えて、首まで。
ゆっくりと、確かめるように、なぞる。
僕の指は反対に、君の背中から下のほうへ降りていく。
ふたつの丘陵の間を抜けて、その奥まで。
ゆっくりと潜る…。
芸術という理念を掲げて戦う兵士のような彼女とは対照的に、君は、なんのてらいもなく、身の回りにある物を褒めていた。「ステキ」…彼女には絶対に言えない言葉だった。今にして思えば、素敵だと思ったことを「ステキ」ということなんて、普通であたりまえのことだが、牙を剥くことが「感性」だと思っていたあの頃の僕に、君の言葉は新鮮だった。
君は、僕の心を捕らえて、放さなかった。
彼女と暮らしたアパートは、僕と彼女の住居であり、アトリエだった。絵を描くために、そこに戻ると、失望しきった「芸術家」がぶつけようのない苛立ちを全て、僕にぶつけてきた。数年間、ともに闘ってきた僕は、彼女の戦友であり続けようとした。彼女の苛立ちは、全部僕が引き受けようと思った。彼女の精神のバランスを、ぎりぎりのところで保っていられるのは、僕という存在ではないかと思った。僕は、そのアンバランスを君の存在で補った。
普段は、君のところへ行く。君は言い知れぬ不安をかき消すように、幾度となく僕を求めた。明日、二人の関係は終わってしまう、そんな顔で僕を見た。君の大きな瞳は、いつも不安で濡れていた。僕は君のそんな不安を、まるで関係ない、と笑い飛ばしていた。だけど、絵を描くときだけ、彼女のもとに帰る。彼女は、苛立ちを全て僕にぶつける。僕を罵倒し続ける。そんな日々が続いた。
その間に、僕の絵は、僕の手元を離れてどんどん歩いていってしまった。僕が描きたいと思うのではなく、世間に求められるまま、意思のない絵を描き続けた。
そんな僕を、君は「ステキ」といって賞賛し、彼女は「偽善者」といって罵倒した。
どんなに僕を罵倒し、荒れ狂い、部屋をかき乱していても、僕の描いた絵には、傷ひとつつけなかった。彼女は、気位の高い芸術家だった。
ある日、彼女は部屋を出た。
何も変わっていない部屋から、彼女の姿と、画材だけがなくなっていた。
彼女が僕に残したメッセージは、真っ二つに折られた僕の絵筆だけだった。
僕は、彼女を追わなかった。それでも、折れた筆を見て、彼女の指先に血がにじんでいるのではないかと、心配した。だけど彼女は、僕を必要としなくなったんだ。僕らは、次の一歩を踏み出しただけなんだ。僕は、自分に言い聞かせた。
…君は、二度目の頂点を求める。僕も、極小値を越えて上昇のカーブにさしかかってきた。
怠惰な快感の泉から、飛び出すように激しく、君の身体が跳ねる。
飛魚のような君の身体が、僕の胸を飛び出て行かないように、
僕は君の手をとると、指を絡めた。
君の柔らかな感触が、僕の熱い思いを受け止める。
汗が、吐息が、激しさを増す。
君の中で、僕の激情は休むことを忘れて暴れ続ける。
君は、苦痛に耐えるような表情と声で、更なる深みを求めている。
君の口もとから、泣くような刹那の音がもれる。
水の底へ沈むような体感と、宇宙の果てまで飛びそうな意識。
急激な上昇。僕らの放物線が、二度目の頂点を越えた…。
…Fin.
年輪 [短編小説]
母がなくなってからの20年、私はずっと父と二人で暮らしている。
父は都心にある銀行の本店勤務。私は朝食が済むと、出勤のついでに、クルマで父を駅まで送る。助手席に座っていた父は、駅に着くと改札口の人ごみに消えていった。主を失った助手席のクッション。そこに私の刺繍の水色がある。
これを見て、私の一日が始まる。
車の中で私は父に話をする。
「お父さん、この間ね…」
半分居眠りをしているような無表情で、父は頷きながら聞いていた。私も、聞いて欲しい気持ちより、ただ話したい気持ちだけで、父が聞いているかどうかはたいした問題でなかった。
やがてクルマが駅に着くと、「じゃあ、行ってくる」と短く言って、父はクルマを降りた。
私の日常は、この20年の間、ほとんど何も変わっていない。駅から真っ直ぐ仕事に向かい、夕方まで働く。いつまでたっても何も変わらない暮らしに、漠然とした不安がよぎる。仕事に熱心に取り組んでいるわけでもなく、恋をしているわけでもない。かつては、恋もしたけれど、そこに飛び込むよりは惰性で生きている今の暮らしに逃げてしまったのだ。
仕事が終わると趣味の時間。音楽を聴きながら、刺繍をする。身の回りには、私が刺繍をしたクッションやカバーがたくさんあった。自分のセンスにも、ほんの少し自負心もある。友人のハンカチなんかに刺繍を入れることもある。週末には少し家事をするけれど、必要最小限だけだ。自分の好きなことに没頭できるこの時間が、私の最も充実した時間だ。
父が帰宅すると、挨拶だけをかわして、父は一人でテレビを見たり、本を読んだりしている。
こんな日常のくり返しが、私にはあたりまえのことになっていた。
その日も、夜の7時ごろに父は帰ってきた。
駅前から、私に電話をかけてくる。「おぅ、今、駅に着いた」その電話を聞いて、私はクルマを走らせて父を乗せる。どちらが聞くでもなく、お互いに言葉を発する。そしてなんとなく相槌を打つ。
ふと、ルームミラーに移った自分の髪、そこに白髪があった。ずいぶん増えてる…。
父は話し続けていた。
ある朝、いつものように私は父に話をした。
「お父さん、会社でね…」
珍しく、父は笑って聞いていた。笑うと、弱弱しく咳き込んだ。一度咳が出ると、なかなか止まらなかった。苦しそうな父を見て、こんな時間がいつまで続くのだろうと、漠然と思った。
葉桜は日ごとに色を強くしている。淡いピンクの花びらから、うすいグリーンの葉にうつり、やがてしっかりと緑色を強めている。
駅前で父を降ろし、家に戻る。助手席には、父のこげ茶色のハンカチが落ちていた。
今日も、同じ日常。私は増えてきた白髪を自分で染めようか、美容院に行こうか、迷っていた。
そして、夜。父を迎えに駅へ行く。
珍しく機嫌のよさそうな顔で、父が話し始めた。
「今日はな、すごくおもしろい話を聞いたんだ」
父は、私の反応も待たずに夢中になって私に話し始めた。私は、父の話を聞いて絶句してしまった。
「お父さん…」
驚いた私の表情を見た父は、自分の話が面白くて絶句をしたと思い込んだのだろう。ますます語意を強めて、熱心に話し続けた。
私は、不安になった。
あたりまえだった私の日常が、音を立てて崩れていくような不安が、私に襲いかかってきた。私の暮らしを支える安心の梯子が、突然はずされて、足元に無限の闇が広がっているようだ。
つくづく、歳をとった父と、私の現実に気付いた。
「お父さん…、
それ…、
今朝、私がした話だよ」
…Fin.
⇒PELIKAN 作品目録
面影 [短編小説]
僕の大切なドストエフスキー全集が、書斎の本棚に並んでいる。女子大の文学部を卒業したはずの妻も、この本には手をつけたことがない。この本のひとつに、とても古くて懐かしい写真がはさんである。ごくたまに、僕はこの写真を手にとって眺めることがある。
君は、元気だろうか?
今でも忘れない、遠い夏の日の思い出。僕の人生の、最大の分岐点となった夏のことだった。
君は素顔のままで、砂浜を歩いていた。まだ早い、7月始めの海。夕暮れに人影はなく、君は長い影を従えて一人で歩いていた。僕は、テトラポットに腰掛けて、君の姿を眺めていた。
近付いてきた君と、少しの会話を交わした。君は都会の学生で、僕は地元の高校生だった。
その夏、君はこの海辺の小さな町で過ごすと言った。僕らは、日に日に親しくなっていった。
一緒に、渚を走る風を感じた。焼ける太陽と砂の温度を知った。そして、人の優しさと温かさを知った。感情を表に出さない君は、僕の反応をうかがうように見ていた。僕は、君の表情を探るように見つめた。自然に求め合った僕たち。凪の間のわずかな時間、僕らは港の外れで抱き合った。
…夏は、そうして過ぎていった。
夏の終わり、君はいなくなった。
風が泣くように吹いた秋の始まりだった。何度も何度も、彼女の名前を呼ぼうとしては、言葉にならない声をあげた。海風が、僕の声を波の向こうに運んでいった。
妻は、7つ歳下。いつも僕の周りを子犬のように歩いている。とってもやきもち焼きだ。僕が、雑誌のグラビアを眺めていたり、すれ違う女性を目で追っていたりすると、二の腕をつねるのだ。僕が視線を奪われてしまう女性は、決まってあの夏の彼女の面影が見えたときだ。肩までのサラサラの髪。小麦色の肌。大きな瞳と、小さなえくぼ。僕の女性の可愛らしさの基準は、彼女だったんだろう。妻がそれを知ったらどうなることか、恐ろしくて想像もできない。あの夏の思い出は、永遠に僕の胸の中だけにおいておくことにしてある。
黙って微笑を浮かべて僕を見つめる。見開いた瞳の薄いブラウン。妻と彼女の共通点。もちろん、僕は妻を愛している。
妻の笑顔を見るためなら、僕は何でもしてあげる。デパートで妻がじっと見ている洋服も、ショッピングモールのショーケースに並ぶアクセサリーも、商店街の軒先にあるサンダルも、ペットショップで転がっていたアメリカンショートヘアーも、妻が笑ってくれるなら何でも。
ただ、ひとつだけ、僕は妻には買わないものがある。それは、パールの指輪だ。僕のひそやかな抵抗、あの夏、アルバイト代をはたいて買った彼女へのプレゼントが、安いパールの指輪だった。今でも忘れていない証に、それだけは彼女のためにとってある。
ただ、妻はパールには見向きもしないけど、
…ね。
…Fin.
鬼哭啾々 Kikokushushu [短編小説]
昨日、
朋美の掲示板に
陵くんのことが書かれた。
ついに、陵くんが…。
私は、目の前が暗くなった。
少し、眩暈がした。
陵くんは、同じクラスの男子。明るくて、よく話す、クラスの中心的存在だった。
そして、大きくカールしたふわふわのまつ毛が魅力的な男子だった。
陵くんのことが好きだったのは、私だけじゃなかったはずだ。
朋美の掲示板は、クラスの半分以上の人が見ていた。
そこに名前が書かれた人は、次の日から「消され」た。
「まぢウザイんですけど。
消えてくんない?」
普段は、誰にでも明るく愛想のいい朋美。
その朋美が、すれ違いざまにボソッと呟くと、その日の晩には掲示板に名前があがる。
来た…。
その瞬間、誰もが息を飲む。
背筋が凍るような瞬間。
そこに書かれた名前が、自分ではないことにホッとする。そして、あまり仲のよくない人だと、安堵する。
今度は陵くんだ。
私は落ち込む。いつも斜め後ろから見ていたあのふわふわのまつ毛が、明日は湿っているかもしれない。私はどうすればよいのだろう?
陵くんの事を無視しなければ、次に名前を書かれるのは、
…きっと私だ。
陵くんは、
正義感の強い人だった。
以前、恭子の名前が掲示板に書かれた次の日、恭子の周りから友達が消えた。
いいえ、「消され」たのは恭子のほうだった。
恭子はいないものとして扱われた。配布物も回ってこない。誰も挨拶をしなければ、恭子の挨拶に応える人もいなかった。
…ただ一人、
陵くんを除いて。
「お前ら、なに陰険なことしてんだよ!」
陵くんの正義感が炸裂する。そして、次の瞬間、
「はぁ?
まぢウザイんですけど。
消えてくんない?」
朋美の呟きが、
静かに流れた。
誰かが、朋美を止めなければならない。みんな、そう思っているはずだ。クラスの中で、こんなシカトが楽しいのは、ごく一部の人だけ。私たち他のみんなは、自分が「消され」るのが怖くて黙っているだけ。
陵くんの正義感は、
私たちの密かな希望だった。
一夜明けて、朝の教室では、悪い方の予感が的中していた。誰も、陵くんの挨拶には応えられなかった。
いつも通り、明るく大きな声で、
「おはよう!」
と、言いながら教室に入ってきた。
誰が一番先に応えるか…。
みんなが様子を伺った。
誰かが陵くんに、
「おはよう!」
と、言い返すことができれば、堰を切ったように挨拶が交わされ、いつもの朝になった、
…はずだった。
朋美が、教室を静かに見回していた。
その、あまりに鋭い視線で、みんな息を飲んだ。
陵くんの「おはよう」は宙に浮いたまま、
朋美の視線で「消され」た。
そして、
陵くんはシカトされた。
始めは、いつもの強い口調で、
「お前ら、
何やってんだよ!
なんで、
朋美の言いなりなんだよ!」
と言っていたが、誰も答えなかった。
私も、喉もとまで声が出かかっているのに、言葉にならなかった。
ツギハオマエガキエロ…
頭の中に、
低くて暗い声がこだまする。
陵くんの問いかけに答えたいのに、できなかった。私まで、イジメられてるようだ。辛い、苦しい、…泣きたい。
いいえ、泣きたいなんて、そんな単純な気持ちじゃない。
単純に泣いたり、笑ったり…。それだけで過ごせた日々が懐かしい。
今の私には、泣いても怒っても、どうしようもない無力感が襲いかかる。そんな無力な私の心が、一番私を苦しめてるんだ…。
きっと同じ思いをしてる人は、他にもいるだろう。いいえ、今日だけじゃない。恭子の時だって、その前だって、友達を突然「消され」た人がいたはずだ。
悲しかったのは、
一人だけじゃなかったんだ…
そんな簡単なことに、
私は今、気づいた。
でも…、
ツギハオマエガキエロ…
…何もできない。
…Fin.
鬼哭啾々(キコクシュウシュウ)
=恐ろしい気配が漂うこと。
にっぽんご [短編小説]
「ぶらんこだー
うえむくと そらぁー
したむくと つちぃー
ふあーんてして、ぶはぁってして
きもちかったから、オレぶらんこ すきっ」
我が家には、日本語ならぬ『にっぽんご』を使う子供がいる。
空には、真っ白な雲。ちょうど、ソーダ水に浮かぶ泡のような雲。大地には、芽吹いたばかりの緑。ビー玉を転がしたように鮮やかな色の花。
「オレ、もう1ねんせいだから、今日、班きめがあるんだ」
そして帰宅。
「こうちゃんが1ぱんで、大ちゃんが6ぱんで、
オレ、12ぱん!」
「え、12班じゃないの?」
「ちがうよ、12ぱんだよ。ぱんちょうサンは6年だし。かっこいくね」
皮の香りのする、おろしたてのランドセル。傷ひとつない、ぴかぴかのランドセル。大きな名札にひらがなで書いた名前。黄色い、交通安全のバッジ。
月曜日は、身体より大きな手提げ鞄を持って、学校へ通う。
またある時は、時間の概念さえ、自由自在だ。
「ただいま~、オレ、でかけるよ。今日、エミちゃんと約束してきたし。2時にね、公園で待ち合わせなんだよねぇ…」
ちょっと待て!今日は5時間授業のはずだ。ということは、こうして帰ってきた時点で、もう3時近いはずだ。
部屋の隅で、カチカチと音を立てて回る置時計の秒針。窓から吹き込む風に揺れている、机の前の時間割表。
「今、帰ってきたばっかりでしょ。それで、今は何時なの?」
「時計だって読めるしぃ、えっとね、3じ。…ええぇ、ほんとかよ~、3じかよ~」
いや、ちょっと待てよ。お前だけじゃない、エミちゃんだって、家に着くのは3時だろ。
「やばいよぉ、オレ、公園いってくるからー」
人の話なんてまるで聞かずに、膝小僧のかさぶたを引っ掻きながら、シャツをズボンから出して、大慌てで飛び出していった。
まだ高い太陽が、地面つくったちっちゃな影。近所の家や、木々の影と交じり合いながら、公園の方へと消えていったちっちゃな影。
日本語のようでいて、微妙に違う、ピカピカの1年生があやつる不思議な言葉『にっぽんご』。そして、時代を超えてそこにある子供のいる光景。
いつかこの子達も、大人と同じ日本語を話すようになるのだろう。大人が使う言葉を真似て…。
…Fin.
オープンカー [短編小説]
ハッチバックの小さな車は、カセットテープで野太いロックを流しながら走っていた。
取ったばかりの免許、買ったばかりの中古車。ハンドルを握っていれば、それだけで楽しかった。助手席に、付き合い始めて1年経つ彼女がいれば、それでよかった。
「春の海が見たい」
彼女が呟いた言葉で、俺は車を走らせる。
彼女は、車にはまったく疎かった。あの頃、BMWやフェラーリ、せめてソアラでなきゃ乗らない、と言う生意気な女が多い中でこう言ってくれた。
「あなたの車が、一番好き」
流行にも疎かった。行列のできる店よりも、景色のいい穴場が好きだった。そういう彼女が、俺は大好きだった。
でも、彼女だって本当はもっと高級な車に乗って、もっとおしゃれな店で食事をするようなデートがしたいんだろう。平凡な学生である俺に、無理をさせない優しさなのだろう、と思っていた。
海沿いの国道を走る。少しボリュームを上げると、音が割れてしまうカセットデッキ。強い日差しで効かないエアコン。そして、髪をかき乱すだけの中途半端なサンルーフ。
横目で彼女を見る。くちびるに笑みを浮かべて、きらきら光る海を見ていた。彼女の華奢な腕に、小さな花がモチーフのブレスレットが、ひらひらと揺れている。
いつか、彼女をもっと素敵なドライブに連れて行ってあげたい、と思った。
海沿いの駐車場は、カップルたちが乗りつけたクーペで混雑していた。高級感のある2ドアクーペは、恋人同士にはちょうどいい狭さだ。街でも、海でも、身なりのいい若者はそういう車に乗っていた。
その中でも一際目立っていたのは、オープンカーだった。
まるでボートのように大きな口を開けた真紅のボディーに、黒い本皮張りのシートが2つ、きれいに並んでいた。木目のついたステアリング、クロムシルバーに輝く計器類。いつかこういう車に彼女を乗せて走りたい。
「いつか、オープンカーで来たいね」
俺は言った。
「うん、そうだね」
戸惑ったような瞳をこちらに向けて、短く、彼女は答えた。
あれから、もう20年経つ。
俺はかなり頑張ったんだと思う。フリーランスで始めたCGの仕事は、徐々に軌道に乗り、気が付くと同級生たちの3倍近い年収を得ていた。その後、若い仲間を集めて、今や「時代を創るクリエーター集団」と呼ばれる会社にまで成長させた。
春の海まで、オープンカーを走らせる。身体にフィットする柔らかな本皮シートに身をゆだね、カーステレオから流れる優雅なバロック音楽に耳を傾ける。
オープンカーは春の陽射しをいっぱいに浴びて、風を切って走る。夢に描いたドライブが、今、現実のものになっている。
俺の隣には、少々がさつだが若い娘が座っている。
だが、俺の夢は一つだけ叶えられなかった。
助手席に座るはずだった、彼女は…、
…お気に入りの料理教室のレシピを片手に、クッキー作りに励んでいる。奥ゆかしさは消え失せ、近頃は小麦粉の銘柄にまでこだわりを見せる変わりようだ。
変わったのは、奥ゆかしさだけではない。ひらひらとブレスレットが揺れていた華奢な腕は、引力の思うがまま皮下脂肪が、ゆさゆさと揺れていた。
舌も身体も肥えてしまった彼女、そして、どこに出しても愛人にしか見えない、今、助手席に座っている蓮っ葉な娘。隠し味程度にしか、あの頃の面影を残していない2人の女たち…、20年という月日は、こんなにも人を変えてしまった。
思うように行かない事もある。でも、これも人生の醍醐味だ。
…Fin.
ちょうちょ [短編小説]
郊外のショッピングモールの中は、連れ立った主婦たちで賑やかだ。
幼稚園に通う子供を送り出してから、夕食の支度に忙しい夕暮れまで。それが私たちの特別な時間だ。
女たちが集まってする話と言えば、せいぜい夫への愚痴か、誰かの噂話。どちらにしても退屈な時間だ。
私はそんな主婦の群れを、少し顎を上げて通り抜ける。
今日は久し振りのデートだ。
夫にばれないように、上手な言い訳を用意して外出する。
私たちは月に2回ほど、こうしてデートをしている。
胸がきゅんとするような衝動は、久し振りだった。
彼のために、何かしてあげたい。
彼を喜ばせてあげたい。
日常、目に触れるもの全てに、彼は何を感じるだろうと思う。瑣末な日常は私の中を通り抜けていく。
そして、彼を思うことだけで、日々に輝きが増していた。私自身も、輝きを取り戻したかった。
「髪、染めたの?似合うね」
待ち合わせに現れた彼は、自然にそんな褒め言葉を口にする。夫は、髪を切っても気付いてくれない。
「今日はずいぶん綺麗だね、かわいいよ」
そう言いながら、ごく自然に彼の指が私の指を絡めとる。
ファッション誌で見つけ、どうしても欲しかったふんわりとしたフェミニンなスカート、ピンヒールのサンダル。
やっぱり彼は気付いてくれた。
自由業らしい、彼の服装に、今日の私は似合っているだろう。普通の恋人同士に見えるだろう。
彼との逢瀬を繰り返すたびに私は、彼が私の一部になったような愛おしさを感じる。
そして、彼にもっともっと私との時間を欲しがってもらいたい、と願っている。だから、綺麗な私をもっと見つめて欲しい。
今日はネイルもしてきた。思いきってサロンで仕上げた私の手足の爪たちには、蝶が舞っている。
彼は、ベッドに腰掛けて煙草に火を点けた。大きく吐き出す白い煙が、彼の肩越しの綺麗な筋肉の隆起したラインで揺れている。こめかみから顎に抜ける絶妙なカーブで揺れている。
私は、彼のこの無防備な後姿が大好きだ。…また、彼が欲しくなる。
「ねぇ、次はいつ逢えるの?」
おもむろに携帯を覗いた彼に、言葉を投げる。
「そうだね…、少し忙しくなるんだ。僕から連絡する」
彼は、携帯に落とした視線をはずさずに、優しい口調で答えた。
彼から、出会った頃の情熱が消えていく…、そんな気がした。キャミソールのレースの花柄模様が、私の素足の白に映える。
~ねぇ、もう一度、私を見て~
願いを込めて、彼の長いまつ毛と、その下に光る瞳を、斜め後ろから見ていた。
私の願いは、彼には届かなかった。
ショッピングモールに戻ると、私たちの逢瀬も終わる。無理をして履いてきたサンダルの、つま先のワイヤーが、私のつま先をちぎろうとしている。痛みを堪えて、彼の横を歩く。華奢な靴は、こんな郊外のショッピングモールには似合わない。
痛みを堪え、言葉少なに歩いていると、音楽が聞こえてきた。
♫ヒール高い靴を履いて
あなたの隣、シャナリシャナリ
ペディキュアのちょうちょ
見えるかしら…
彼は、私の服装には気付いてくれたけど、つま先に舞う蝶までは気付いてくれなかった。次に逢うときは、どこまで気付いてくれるのだろう。
ショッピングモールの入口にあるアーチを抜けると、退屈な日常が目の前にあった。
家に戻れば、全てが終わる。そして、また日常がはじまる。
つま先の蝶たちも、リムーバーできれいに流される。
…Fin.