連鎖 [短編小説]




 つい、さっきまで二人で抱き合っていたというのに、メールひとつで彼は飛び出していった。

 いくら泣いても、嘆いても、何も変わらない。いつだって自分に言い聞かせてきた。
 彼は、きっといつものように、すぐに追い返されて、ここに戻ってくる。なのに、私はそんな彼に、悪態のひとつすらつけやしない。怯える瞳で、彼の動きを追いかけるだけ…。
 私は、彼女の代わりだ。彼は、私を使って彼女を感じようとしている。彼が私を抱くときの視線は、私よりもっと遠くを見ている。私の身体を通り抜けて、その先にいる彼女を見つめている。私はどうして彼女に生まれて来なかったんだろう。きっと、神様なんていないのだろう。生まれ変わるなんてこともないのだろう。私が彼女と代われる日なんて、未来永劫やっては来ない。

 私は、このまま磨り減っていくの?

 私は大学に通うかたわら、学習塾でアルバイトをしていた。彼は、その塾で働くベテランのアルバイトだった。大学を卒業しても定職に就かずに、塾のアルバイトを8年も続けているフリーターだ。彼が就職をしない理由は、「旅に出るため」だった。バイト代がたまると、仕事を何週間も休んで旅に出た。バイクで日本中、世界中を駆け回った。
 旅から戻る彼は、とても魅力的だ。肌は日に焼け、精悍にシェイプされた身体のシルエットは野生動物のようだ。そして、好奇心に満ち溢れる瞳の輝き…。他の男たちが、みな一様に頭でっかちでひ弱な男に見えてしまう。
 半年前、旅から戻ったばかりの彼と、お酒を飲む機会があった。同じ塾の人たちの飲み会だった。私は、気持ちが高ぶっていた。その上、慣れないお酒で、少し大胆になれた。

「…送ってくれませんか?」

 その晩から、私と彼は特別な関係になった。友達の一線は越えた。でも、恋人と呼べるほどの距離にはなれない。
 彼は私のくちびるに、くちびるを重ねて問いかけた。

「俺、好きな人がいるんだ。それでもいい?」

 ひどい人だと思った。でも私は、

「うん」

 と、答えていた。同じ職場で働き時間を共有できるのは、私の方だから、私に分がある。瞬時にそう思った。

 でも、次のデートで私は打ちのめされる。

 塾の仕事が終わったあと、私は彼の行きつけのバーに連れられた。路地裏の雑居ビル、外階段が地下に続いていて、その先にドアがあった。彼はドアを開けると、あっ、と声をあげた。

「もう、帰ってたんだ!」

 彼に親しげに声をかけたその人が、彼女だった。彼女は大人の表情で、彼に手を振る。彼は、私など始めからいなかったかのように、彼女の隣に座ると、私を会社の同僚とだけ伝えて、彼女に旅の話を熱心に語り始めていた。
 文字を読むのがやっとの間接照明の下で、二人は、肩を寄せ合い、指を絡めあい、そして、人目も気にせずキスをしていた。

 私のグラスを持つ手が震えていた。生まれて初めて、悲しみで身体が震えた。グラスの中で、カラカラと氷が音をたてた。

「先に帰ってて、いいよ」

 店の中で、彼と交わした会話はこれだけだった。

 3時間ほどたって、彼からのメールが届いた。

『行ってもいい?』

 …私は、彼を拒めない。

 彼にとっての彼女は、大切な人だった。彼女は自由奔放な人で、常識の枠に収まる人ではなかった。彼女は誰にも縛られない、忘れられない恋人以外には…。彼女に襲いかかる不安や孤独は、彼女の周囲の何人かの男たちで癒されていた。彼は、その中の一人でしかなかった。まるで、彼と私の関係みたいだ。彼女、彼、私。不思議な連鎖だ。
 たとえどんな状況であっても、彼女のもとへ駆けていく彼。その彼を、癒せるのは私しかいない。私は彼に傅く。たとえどんな状況であっても、彼を受け入れる…。

 行ってしまった彼を座ったまま見送った私は、明日のバイトの準備を始めた。何かに没頭してしまえば、彼と会えない時間なんてすぐに過ぎる。
 テキストを広げて、準備を始めようとしたとき、薄いページの紙で、指を切ってしまった。すると、たいして痛くもないのに、血がにじんできた。指先の小さな亀裂から溢れる赤い雫を見ていたら、涙がこぼれた。

 彼の心にも、チクッて痛みが走るのかな?

 もしも、私が消えたら…。

 彼の前では泣かない私が、一人ですすり泣く。彼を何度も自由にさせて、そして私は抜け殻になって彼を待つ。
 明け方になって、彼が戻ってきた。悲しみが瞳に流れていた。私は黙って彼を引き寄せた。彼は震えながら私の隣にもぐりこんだ。傷ついた彼を抱きしめながら、私はもっと深く傷ついていた。彼は、自分だけが傷ついたみたいに、私の身体を乱暴に扱っていた。彼女にぶつけられない苛立ちを、私にぶつけた。
 私は、乱暴にされればされるほど、救われたような気になった。心が、空っぽになる…。痛い…。
 激しく、身勝手に動き続ける彼に私は囁いた。

「もっと、虐めて…」

 彼は、悲しそうに私をじっと見ていた。





           …Fin.


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