年輪 [短編小説]


 母がなくなってからの20年、私はずっと父と二人で暮らしている。

 父は都心にある銀行の本店勤務。私は朝食が済むと、出勤のついでに、クルマで父を駅まで送る。助手席に座っていた父は、駅に着くと改札口の人ごみに消えていった。主を失った助手席のクッション。そこに私の刺繍の水色がある。
 これを見て、私の一日が始まる。

 車の中で私は父に話をする。

「お父さん、この間ね…」

 半分居眠りをしているような無表情で、父は頷きながら聞いていた。私も、聞いて欲しい気持ちより、ただ話したい気持ちだけで、父が聞いているかどうかはたいした問題でなかった。
 やがてクルマが駅に着くと、「じゃあ、行ってくる」と短く言って、父はクルマを降りた。

 私の日常は、この20年の間、ほとんど何も変わっていない。駅から真っ直ぐ仕事に向かい、夕方まで働く。いつまでたっても何も変わらない暮らしに、漠然とした不安がよぎる。仕事に熱心に取り組んでいるわけでもなく、恋をしているわけでもない。かつては、恋もしたけれど、そこに飛び込むよりは惰性で生きている今の暮らしに逃げてしまったのだ。
 仕事が終わると趣味の時間。音楽を聴きながら、刺繍をする。身の回りには、私が刺繍をしたクッションやカバーがたくさんあった。自分のセンスにも、ほんの少し自負心もある。友人のハンカチなんかに刺繍を入れることもある。週末には少し家事をするけれど、必要最小限だけだ。自分の好きなことに没頭できるこの時間が、私の最も充実した時間だ。
 父が帰宅すると、挨拶だけをかわして、父は一人でテレビを見たり、本を読んだりしている。

 こんな日常のくり返しが、私にはあたりまえのことになっていた。



 その日も、夜の7時ごろに父は帰ってきた。

 駅前から、私に電話をかけてくる。「おぅ、今、駅に着いた」その電話を聞いて、私はクルマを走らせて父を乗せる。どちらが聞くでもなく、お互いに言葉を発する。そしてなんとなく相槌を打つ。
 ふと、ルームミラーに移った自分の髪、そこに白髪があった。ずいぶん増えてる…。
 父は話し続けていた。



 ある朝、いつものように私は父に話をした。

「お父さん、会社でね…」

 珍しく、父は笑って聞いていた。笑うと、弱弱しく咳き込んだ。一度咳が出ると、なかなか止まらなかった。苦しそうな父を見て、こんな時間がいつまで続くのだろうと、漠然と思った。
 葉桜は日ごとに色を強くしている。淡いピンクの花びらから、うすいグリーンの葉にうつり、やがてしっかりと緑色を強めている。
 駅前で父を降ろし、家に戻る。助手席には、父のこげ茶色のハンカチが落ちていた。

 今日も、同じ日常。私は増えてきた白髪を自分で染めようか、美容院に行こうか、迷っていた。



 そして、夜。父を迎えに駅へ行く。

 珍しく機嫌のよさそうな顔で、父が話し始めた。

「今日はな、すごくおもしろい話を聞いたんだ」

 父は、私の反応も待たずに夢中になって私に話し始めた。私は、父の話を聞いて絶句してしまった。

「お父さん…」

 驚いた私の表情を見た父は、自分の話が面白くて絶句をしたと思い込んだのだろう。ますます語意を強めて、熱心に話し続けた。

 私は、不安になった。

 あたりまえだった私の日常が、音を立てて崩れていくような不安が、私に襲いかかってきた。私の暮らしを支える安心の梯子が、突然はずされて、足元に無限の闇が広がっているようだ。
 つくづく、歳をとった父と、私の現実に気付いた。


「お父さん…、








 それ…、













 今朝、私がした話だよ」


          …Fin.



PELIKAN 作品目録



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