面影 [短編小説]


 僕の大切なドストエフスキー全集が、書斎の本棚に並んでいる。女子大の文学部を卒業したはずの妻も、この本には手をつけたことがない。この本のひとつに、とても古くて懐かしい写真がはさんである。ごくたまに、僕はこの写真を手にとって眺めることがある。

 君は、元気だろうか?

 今でも忘れない、遠い夏の日の思い出。僕の人生の、最大の分岐点となった夏のことだった。
 君は素顔のままで、砂浜を歩いていた。まだ早い、7月始めの海。夕暮れに人影はなく、君は長い影を従えて一人で歩いていた。僕は、テトラポットに腰掛けて、君の姿を眺めていた。
 近付いてきた君と、少しの会話を交わした。君は都会の学生で、僕は地元の高校生だった。

 その夏、君はこの海辺の小さな町で過ごすと言った。僕らは、日に日に親しくなっていった。
 一緒に、渚を走る風を感じた。焼ける太陽と砂の温度を知った。そして、人の優しさと温かさを知った。感情を表に出さない君は、僕の反応をうかがうように見ていた。僕は、君の表情を探るように見つめた。自然に求め合った僕たち。凪の間のわずかな時間、僕らは港の外れで抱き合った。

…夏は、そうして過ぎていった。

 夏の終わり、君はいなくなった。

風が泣くように吹いた秋の始まりだった。何度も何度も、彼女の名前を呼ぼうとしては、言葉にならない声をあげた。海風が、僕の声を波の向こうに運んでいった。

 妻は、7つ歳下。いつも僕の周りを子犬のように歩いている。とってもやきもち焼きだ。僕が、雑誌のグラビアを眺めていたり、すれ違う女性を目で追っていたりすると、二の腕をつねるのだ。僕が視線を奪われてしまう女性は、決まってあの夏の彼女の面影が見えたときだ。肩までのサラサラの髪。小麦色の肌。大きな瞳と、小さなえくぼ。僕の女性の可愛らしさの基準は、彼女だったんだろう。妻がそれを知ったらどうなることか、恐ろしくて想像もできない。あの夏の思い出は、永遠に僕の胸の中だけにおいておくことにしてある。
 黙って微笑を浮かべて僕を見つめる。見開いた瞳の薄いブラウン。妻と彼女の共通点。もちろん、僕は妻を愛している。
 妻の笑顔を見るためなら、僕は何でもしてあげる。デパートで妻がじっと見ている洋服も、ショッピングモールのショーケースに並ぶアクセサリーも、商店街の軒先にあるサンダルも、ペットショップで転がっていたアメリカンショートヘアーも、妻が笑ってくれるなら何でも。

 ただ、ひとつだけ、僕は妻には買わないものがある。それは、パールの指輪だ。僕のひそやかな抵抗、あの夏、アルバイト代をはたいて買った彼女へのプレゼントが、安いパールの指輪だった。今でも忘れていない証に、それだけは彼女のためにとってある。

 ただ、妻はパールには見向きもしないけど、


…ね。


          …Fin.

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